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山内昌之『スルタンガリエフの夢』―ボルシェビキ革命の意味とは?

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 スルタンガリエフは、タタール人である。1882年にカザン(注1)に生まれ、革命の年の1917年にロシア共産党に入党した。その動機は、「『普遍主義』的な自然権と社会的平等を共に達成しようとする社会主義が、異なる民族の利害対立つまり『民族問題』を解決する方策」(P348)、と考えたからである。そしてスターリンに抜擢され、イスラム教徒としてはめずらしく最高位の中央委員に上りつめる。中央ムスリム人民委員部などで要職を歴任した。その彼が、23年4月の第12回大会のしばらくのちに逮捕され、除名される。山内は言う。「スルタンガリエフの除名という過酷な措置は、スターリンが・・・体系だっておこなう民族共産主義にたいする本格的な攻撃のはじまりであった」、と。スルタンガリエフは28年にふたたび逮捕され、翌年の裁判で強制労働10年の刑となり、白海のソロフキ強制収容所(注2)に送られた。死刑に処せられたのは1940年のことである。
●「普遍主義」――資本主義が形成したイデオロギー体系
 山内昌之はこの本に、かなり長い序文と終章をおいている。テーマは「普遍主義」だ。「ボルシェビキとスルタンガリエフの対立の背景には、双方の『文明』に対する価値観の根本的な相違が絡んでいたように思われる。双方の対立は、世界の認識ににかんして普遍的に正しいと考える、何か意味をもち全地域にあてはまる一般的な定式化、つまり『普遍主義』が可能か否かをめぐる争いでもあった」(P17)。「普遍主義」というなら、その内容とともに、だれにとっての「普遍主義」かが問題となる。ボルシェビキからすれば、等しくプロレタリアとして住民を国家的に組織化することだった。しかし彼らは、当然、ロシア帝国の征服と諸民族支配の歴史を引きうけ、それと直面することを避けられない。
 もう一つの「普遍主義」の問題はより深刻だ。山内は言う。「ヨーロッパ文明の世俗的な価値観に『普遍主義』の根拠を見いだしたボルシェビキは、宗教が人民を退化させるアヘンであると信じ、資本主義の発展が開花させた科学や文明の可能性に全幅の信頼をおいていた」(P20)、と。この言い方は、ウエーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(注3)を彷彿とさせる。従ってまた、山内のボルシェビズムに対する手厳しい批判を含んでいるようにも見える。なぜならヨーロッパ文明の価値観とはプロテスタンティズムであり、世俗化した形では「資本主義の精神」だったからだ。それは「天職」を「修行」として全うすることによって、「神に選ばれた者」であることを確証するという宗教思想に基づく。その思想は「職業道徳」に解体し、功利的現世主義に代わる。レーニンの時代においては、金こそが神であるという「物神化」と「資本の意志の内面化」が、労働者階級のなかでも定着していたはずだ。また宗教は、科学・技術という新しい「宗教」への、それが物質化された機械への崇拝と従属ににとってかわられていた。山内によるとすれば、ボルシェビキはヨーロッパ文明に憧憬をいだき、科学がもたらす生産力の発展にロシアの行方を賭けていたことになる。プロテスタンティズムの欧州を追いかける限り、「宗教はアヘン」という天にはいた唾は、ボルシェビキの顔に落ちてくるはずだった。

●バクー大会――「共産主義の仮面をつけている植民地主義」

 ロシアの版図拡大は1552年のカザン征服に始まる。カザンの土地の三分の二がロシア騎兵軍の知行地となった。それは「のちの領土拡張や異民族の征服を『合法化』し、中央集権国家をつくりあげる帝国イデオロギーの根拠になった」(P45~)という。一方、タタール人が民族的に凝集したアイデンティティを持ちつづけることができたのは、信仰や言語への執着、征服者に対する憎悪と怨恨だった。ジャディーディズムと呼ばれるイスラム改革思想、それを社会・政治運動に展開するイスラーフ運動も起こる。そのなかでスルタンガリエフが模索したのは「社会主義への民族的な道」であった。彼はタタール人を「プロレタリア民族」(P168)と規定する。この聞きなれない言葉は、社会主義と民族独立を二つながら達成する主体の形成を期している。独立した「ムスリム共産党」も創立した。また、「植民地における民族革命の勝利こそ帝国主義の『中心』に打撃をあたえて西欧資本主義を崩壊させる」(P14)というのが信念で、「植民地インターナショナル」を構想した。これは西欧の「文明」を憧憬し、ヨーロッパ革命の成否にロシアの命運をみたレーニンとは180°、方角が違う。西欧の革命についても期待していない。「イギリスで革命が勝利したとしても、この国のプロレタリアートは・・・植民地を抑圧し続けるだろう。なぜなら・・・植民地の収奪に利害関係をもっているから」(P171)、と。この利害関係は、ロシア人とタタール人の間にも存在していた。
 1920年9月には、バクー東方諸民族大会が開かれている。ハンガリー革命に勝利したベラ・クーンも参加したが、大半はムスリムである。「スルタンガリエフにとって、バクー大会は『抑圧された民族』の西方に対する大規模な解放闘争の開始を象徴していた」(P251)。しかしボルシェビキはシニカルだったようだ。「レーニンは、民族自決に対しては形式ではあっても尊重することを求めた。スターリンはそれを露骨に侮蔑した」(注4、P224)。大会でムスリムが演説を試みると、赤衛兵が阻止した。トルキスタンから来たナルブタベコフは、「民族的で小ブルジョア的な東方の革命も必ず社会革命ににつながる」と主張、そしてこう演説する。「自分たちの反革命を片付けよ。いま共産主義の仮面をつけている植民地主義をかたづけよ!」、と。その演説には嵐のような拍手、ブラボーの叫びが寄せられたという(P253)。

●最後の「普遍主義」――国家に収斂する社会主義と民族主義
 ボルシェビキの「普遍主義」への指向が、プロレタリア独裁の「国家」と、「資本主義の精神」にに収斂するものであったことを見てきた。新しい「神」としての科学・技術への信仰は、1928年から繰り返される5カ年計画の生産力主義に展開する。それは後に法外な資源の浪費と自然破壊により、生産性の大きな低下をもたらして、ソ連崩壊の遠因をなした。また、「ペレストロイカは・・・民族の火山を噴火させただけでなく、ソ連を民族の戦場に変えるエネルギーを引き出した」(注4、P250)。
 20年の共産主義インターナショナル第2回大会で、レーニンは次のように指示した。「ハン(汗―東方諸国の国王)、地主、ムラ(回教の僧侶)等の地位を強化する汎回教主義・・・と闘争しなければならない」、と(注5)。この一貫した方針が、民族問題の解決への道を閉ざした。具体的にはそれは「反宗教宣伝」として展開された。ロシア人宣教師をつかった強圧的な進め方に対し、スルタンガリエフが介入している。彼の見解はこうだ。「宗教そのものとけっして対決するのではなく、自分の無神論的な信念を、ごくあたりまえの権利として宣伝する」、と(注6)。
 実際のところ「反宗教宣伝」は、ムスリム抑圧の手法でしかなかった。ロシアでは現在、正教徒が75%を占め、無宗教は8%に過ぎない。イスラム教徒はほぼ6%である。抑圧と苦難がある限り、宗教がなくなることはありえない。そして社会主義と民族解放が、いずれも国家の創立としてしか実現されないとすれば、スルタンガリエフの「夢」は中途で閉ざされてしまう。「普遍主義」の根、資本主義を掘り崩さねばならない。

(注1)モスクワ東方800キロ、ステップ経済圏との境に位置する城塞都市。1552年にロシア
 が征服し、シベリアへの版図拡大の拠点となった。レーニンはカザン大学で学んだ
(注2)ソルジェニツインの『収容所群島』で知られる。27年段階で収容者は2万人。その後も
  増え続けて数10万人に達し、うち数万人が死亡したという
(注3)私のBlog「差別の形成は、どう成し遂げられたか―ウエーバーから考える」参照
 http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-6c43.html 
(注4)山内昌之『ラディカル・ヒストリー』(中公新書)P224
(注5)「民族植民地問題にかんするテーゼ原案」(『帝国主義と民族・植民地問題』国民文
  庫)
(注6)山内昌之の論文「イスラム世界とロシア革命(Ⅰ)スルタンガリエフの革命理論」
 http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/21667/1/jaas015007.pdf

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